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storyteller [野沢コメント記事]

1993年シティーロード2月号に掲載されたインタビュー記事です。
スカパー749ch「アジアドラマチックTV」にて、放送が予定されています『雀色時』にふれたコメントがありましたので紹介します。少し長文になります。


          

              2時間ドラマに続いて
                「親愛なる者へ」で
            連続ドラマでの評価も得た脚本家

――――2時間ドラマ、映画での仕事が多かった訳ですが、連続ドラマを書く上で違いや狙いはありましたか。
野沢  ふつう連続ドラマの仕事は、視聴者の声を反映して作っていくらしいんですけど、僕は基本的には視聴者をあまり信用していないし、彼らの嗜好に合わせていくと、どんどん自分からかけはなれていく怖さがあったんです。結局は自分が見たいと言うドラマを信ずるしかない。だから今回は全放送分のストーリーを放送前にかなり細かい段階まで作りました。そこでひとつ自分の目論見としてあったのが視聴者を緊張させたいという事で、どれだけ自分の話術に身構えて見てくれるのか試したい、不遜な言い方になるかもしれないけど視聴率とは逆の意味で、今のお客がどの程度のもなのか計ってやろうという意気込みはありました。
――――
連続ドラマの質が低下した理由をどう考えますか。
野沢  口当たりのいい初心者向けドラマが当たってそれを連発した時に、視聴者も作り手もそれに安住してしまったんですよ。作り手が視聴者のレベルにあわせてしまった事で、視聴者もある程度の事しか期待しなくなってしまった。お互いに甘やかしあってしまった結果です。 
――――
今、ドラマを書く上で何が必要とされていると思いますか。
野沢  要はストーリーテリングの次にくる、その物語と自分との関係というか、その物語に中にいかに自分のテーマを持ち込んでいくかという事ですね。基本的に物語と言うのはもう出尽くしています。早い話レンタルビデオ店に行けば自分のやりたいと思っている物語がいくつか発見できるんですよ。そんな時代だから結局は今、物語を生かすも殺すもアレンジの仕方しだいになってるんだけど、そのアレンジの仕方だけにとどまってしまうと、やっぱり「作家の顔」はもてないんですよ。例えば「親愛なる者へ」だったら、その時自分が直面してた夫婦の実生活とか、女房との将来とかすべて言いたいっていうのが明確にあったんですよ。まあプロとしてやっていく時には、自分がつきつめられるテーマといってもそんなに見つかるもんではないんですが、どんな物語の中にも自分を納得させるものをみせつけていかないとね。そうやって「作家の顔」をもった時に、語り部として本当に何かを語っていけるようになるんじゃないかな。
――――
演出家・鶴橋康夫さんとの2時間ドラマは高い評価を受けている訳ですが、『雀色時』を例にとって、その作劇法を教えていただけますか?
野沢  最初にまずお客=視聴者へのテーマを見つけるんですね。この場合、坂本弁護士の失踪事件で、それで取材していくと背後に確実に新興宗教の影が見えてくる。でも、犯罪の動機として宗教っていうのは狭くて、特殊なんですよね。これではドラマに普遍性をかちえないなと思ったりする。で、まあそうやってテーマをこねくり出した次にストーリーテリングという段階にきて、ここでいろんなリファレンスをとっていく。例えば今回であれば『評決』、『JFK』、『羊たちの沈黙』、『背信の日々』を参考にして、これからの作品の中から使えるものとかインスパイアされるものをつかんできて物語を構成していくわけです。それでだいたいストーリーテリングが見えてきた次に自分へのテーマを見つけにかかります。で、
『雀色時』は犯罪者の動機を商社マンの出世争いというところにもってきた時に、僕の中では仕事人間の末路を書きたいというものが、固まっていきましたね。自分の中のどこかにひょっとしたら、自分もそうなってしまうかもしれない怖さをみつけて、それを自分のテーマにしてもう一度ストーリーテリングの段階にもどり修正していく訳です。そこでゲーム的な犯人探しのストーリーを削ぎ落として自分のテーマが入るようにドラマを作り直す作業になる。こういうストーリーテリングと自分のテーマとをいきつ戻りつしながら物語を組み立てる作業が一番大事だと思いますね。ここに、ドラマが一流になるかならないかの境目があるような気がします。


2007-05-21 03:04  nice!(0)  コメント(2)  トラックバック(0) 
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原作者と脚本家の二重構造(後編) [野沢コメント記事]

月曜日(3/12)掲載記事の続きです。

数多く参加した映画の中で、野沢自身が本当に満足のいく作品がどれほどあったのだろうか・・・・・。
「破線のマリス」は、野沢にとって本当に満足のできた数少ない作品の1つだったのだと思いました。
井坂監督との出会いも、一緒にお仕事させていただいたことも、野沢にとっては嬉しいことだったようです。


 『破線のマリス』創作ノート
    原作者と脚本家の二重構造 

 さて、僕は今回、原作者であり、脚色者でもある。
 それでもやはり、原作者の顔色を窺う。
「この原作の分量を考えたとき、2時間サイズには絶対収まらない。中盤で起こるもうひとつの殺人事件と、警察が動き出すシークエンスはバッサリ切りたいんだけど、文句ないよな?」
 と脚色家の僕が尋ねると、
「まあ許そう。ただし、原作の最後の一行が大テーマなんだから、それをうまく映像にしてくれなかったら、許さないからな」
 と原作者である僕が恫喝する。
 映画化が決まってからというもの、僕は二重人格となった。
 井坂監督が「ヒロインが自己検証ビデオを作るラストを変えたい」と言い出したときには、原作者と脚本家が一致団結して、「いや、これこそがマスコミの自浄作用を訴える大事なエンディングなんだから」と抵抗をする。
 だが、「テーマをくどくどと口で説明するような終わり方でいいのだろうか・・・・・・」という監督の意見には、悔しいが考えさせられるものがあった。
 そして具体案が監督から出された。
 ヒロインの笑顔も映像素材となる、という締めくくりはどうか。
 そのアイディアは強烈な説得力を持って、原作者であり脚色家である僕を突き動かした。
 小説は文字、映画は映像、小説は饒舌に訴えかけるのもよし、しかし映画はとは観客に想像させるもの・・・・・この違いを改めて思い知った。マスコミはどう自浄すればいいのかは、観客に考えてもらうことにした。(できれば小説を買ってもらって答えを確かめてくれたら・・・すごく嬉しい)
 何度見ても、僕らはいいラストシーンを獲得できたものだと思う。


 原作を書き、自分で脚色する。
 山田太一さんは「やめた方がいい。映像を前提にして書くと、小説が細ってしまう」という貴重なアドバイスをいただいた。
 でも、やる。
 原作者と脚本家という相容れない人格を共存させる術を、今、摑みかけている。


2007-03-15 09:33  nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
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原作者と脚本家の二重構造(前編) [野沢コメント記事]

        

 自分の作品歴を振り返ると、原作の脚色は3分の1はあるだろうか。
 最もやり甲斐のある脚色とは、30ページほどの優秀な短編小説を2時間サイズの脚本に膨らませる時だ。
 最も辛い脚色は、出来の悪い長編小説を料理しなければならない時だ。
 そういうものに限って、「原作に忠実にやってほし」という原作者の要望をプロデューサーが安請け合いして、こちらの仕事があらかた終わった頃に知らされる。
 主人公のキャラクターだけを借りてオリジナルのストーリーを作ることが最良の道であるのだが、原作者はお気に召さない。
 脚本が原作者の添削付きで返されたこともある。ト書きに傍線を引かれて、「こんな表現はしないで下さい」と原稿用紙の欄外に注文がついている。自分がまだ中学校の作文の時間にいるような錯覚を覚えたものだ。
「私の小説をちょこちょこっといじって脚本にして、あなたは商売してんでしょ」
 こんなふうに原作者から見下ろされていると感じたのは、僕の被害妄想だろうか。
 連城三紀彦さんも、立松和平さんも、宮本輝さんも、褒めてくれない。
 だったらいっそのこと、原作者とは距離を置くことにした。
 下手に一緒に酒を飲んで、「今度、君に脚色をやってもらう仕事には、原作者として絶対にカットしてもらいたくない場面があってね、それというのは・・・・・・・・」なんていう講釈はは受けたくない。
 原作を預けてくれたんなら、黙ってろ。そう言いたい。
 おそらく「不夜城」を最後に、存命している日本の小説家の作品を脚色することは、二度とないだろう。(馳さんがうるさかった、という意味では全然ない。念のため)
 今、コーネル・ウールリッチの「喪服のランデヴー」という古典ミステリーの脚色を終えたばかりだけど、会うこともないであろう外国の作家で、しかも亡くなった作家とくれば、話は別だ。


2000年―5月号「シナリオ」に「破線のマリス」の脚本が掲載されたさいに、その前文で『破線のマリス』創作ノート、原作者と脚本家のの二重構造と題して書かれたコメントです。
当時の気持ちが良く現れてると思います。
その後、野沢はここにもう1つ書き加えるべき要素があったと思ったでしょう。
存命なさっていない作家でも、その奥様(著作権継承者)が大変うるさく、何一つ思いどうりに書かせてもらえないこともあると。そして、一番受けてはならないのがそういった場合だということ。
私はこの時の、野沢の気持ちをよく知っています。
今現在私も原作を管理する立場になり、この時の野沢の気持ちを思い出し十分に気をつけています。
原作を預けるさいには、脚色家の側に立って最低限の希望を伝え、あとは何も言いません。
結果が自分の思い描いたものと多少違っても、そこに原作の真意を伝えようとする脚色家さんの思いが感じ取れたら、それもありだと思えるんです。
野沢本人だったら違うのかな・・・・。

野沢のコメント後半は次回に掲載します。


2007-03-12 10:06  nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
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この劇的空間 [野沢コメント記事]

1998年4月、「小説すばる」に載せた記事です。
作品を作り出すときに聞いていた音楽など、皆さまには興味深い記事かと思います。


 作品の執筆に入る時には、まずBGM選びから始まる。
『恋人よ』という連続ドラマをやった時には、音楽をデビット・フォスターが担当することがあらかじめ決まっていたため、彼のアルバムを片っ端から買い集めた。先ごろ終わった『青い鳥』では、Globeの主題歌がデモ・デープで送られてくると、毎日それを流してからパソコンの執筆画面と向かい合った。
 すると、過剰なまでの劇的空間が仕事場を支配する。脚本を書きながら、すでに音楽の入った完成シーンが頭の中で繰り広げられている。時には登場人物の台詞を口にし―――つまり、豊川悦司になりきるわけだが――大音響のバック・グランド・ミュージックの中で涙さえこぼす。
 音楽によって僕の体内では覚醒剤が製造され、夕方まで服用を続ける。だから午後5時、その日のノルマを終了してソファに寝転がると、とてつもない疲労感が体を覆う。
 仕事場のCDラックには百枚以上の映画のサウンド・トラックがジャンルごとに並んでいて、作品世界に応じて出演を待っている。
 映画のサウンド・トラックほど、劇的高揚感を知り尽くしている音楽はないので重宝している。
 これから撮影に入るNHKの連続ドラマは中年男とダブル・スコア年の離れた若い女とのラブ・ストーリーだが、その執筆時にかかっていたのは『あなたが寝ている間に』『グリーン・カード』『恋のためらい』『アメリカン・プレジデント』といった映画音楽だった。
 つい最近書き上げた江戸川乱歩賞受賞後第一作の長編は、婦人警官を主人公にしたハードボイルド冒険活劇である。今回選んだのは、ジェームス・ホーナー作曲の映画音楽。『48時間パート2』『身代金』『今そこにある危機』といった作品群だ。この作曲家はおそらく今年、『タイタニック』でオスカーをとるだろう。
 アクション・シーンになると、高鳴る音楽の中でモデルガンをパソコン画面に向けて「その銃を捨てろ」とか何とか言っている。家族には決して見せられない姿だが、先日、七歳の長男に垣間見られてしまった。
「何だか楽しそうだね」と彼は微笑む。僕はバツが悪く、「楽しかないよ。毎日苦しいよ」と愚痴っぽく言うのだが、彼は「ふふふ」と微笑むばかりで、父親の苦労を理解してくれない。
 今日も僕はこの劇的空間に漂う。

 


2007-03-08 09:15  nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(1) 
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『君たちのために残したい』 [野沢コメント記事]

1998年3月25日(水曜日)、野沢自身が執筆し新聞に掲載した記事です。タイプしながら涙が止まりませんでした。


『君たちのために残したい』   
     ―僕の仕事のエネルギー源―

 
 自分以外の誰かのために仕事をするつもりなど、まるでなかった。
 常に自分のために書きたいものを書いてきた。だけど、最近は少し違う。今のこの仕事を「君たち」のために残しておきたい、と考えるようになった。
 君たちはまだ平仮名と簡単な漢字しか読めないから、僕の小説を読むにはあと数年かかるだろ。ドラマの放送時間には寝なきゃいけないから。毎週欠かさず見るというわけにはいかない。
 だけど、君たちはいつか僕の全仕事を見てくれると信じている。居間のビデオラックを占領している50本以上のビデオテープがそれだ。
 僕より背が高くなった君たちがある日、「あれ、見たよ」とぶっきらぼうに言う。「ど、どうだった?」と僕が問いかけると、「よかったよ」と君たちはボソリと答えるだけかも知れない。十分だ。それで。
 僕の書いた小説が紀伊国屋書店に何冊並ぶかより、君たちの部屋の本棚に何冊並ぶかの方が、僕にとっては重要なのだ。
 議論したければ受けて立つ。君たちの母親も交えて、4人で一晩語り明かしたっていい。
 はっきり言ってしまうと、顔も見たことのない視聴者のために身を削っていい仕事をしたいなどとはサラサラ思わない。視聴者は常に遠くにいて、視聴率というものが視聴者の顔をおぼろげに伝えてくれるだけだ。
 プロデューサーが「視聴者はこういうものを見たがっているから・・・・・」と気持ちを代弁するなら、視聴者との戦いはその辺にとどめておきたい。テレビという魔界に引きずりこまれないためには、どれだけ身近に「見せたい人」を持っているかにかかっている。僕はようやくそれに気づき、少し気分が楽になった。
 いつだったか、ある雑誌のインタビューで、自分の作品を「家族への遺書」と答えたことがある。遺書というのは君たちにとってみると重荷かもしれないけど、僕という人間については、ひょっとしたら、実際に僕と話すより、僕の作品を見てくれた方がよく理解できるのかもしれない。
 「愛について」とか「人間とは」とか、面と向かって言うのは照れる。登場人物の口を借りて、君たちに告げているだと思ってほしい。
 君たちが友情に悩んだ時、見て欲しい映画がある。君たちが恋につまづいた時に見てほしい恋愛ドラマがある。君たちが恋をかなえ、結婚をし、それでも夫婦というつながりに疑問を抱くようになったら、見てほしいドラマや読んでほしい小説がある。僕の作品が君たちの人生にとって少しでも役に立つのであれば、これほど嬉しいことはない。
 今は無理でも、いつか君たちが見てくれる。いつか読んでくれる。そう思うと、とてつもないエネルギーがわいてくる。
 今日はもう少し仕事場で頑張ってみようと思ったけど、退院して間もないことだし、盲腸の手術痕をさすりながら、君たちの待つ家に帰ろうか。


尚さん・・・・・今はまだあなたより背が小さい子どもたちですが、上の子は「龍時」を読んで「今まで読んだ中で最高の作品だ」と言っていましたよ。それと、下の娘は「ステイ・ゴールド」を読んでいましたよ。あなたに似て口数が多くないから、「どうだった?」と聞いても「うん」とだけしか言いませんでしたが、ちゃんと部屋の本棚に収まっていましたよ。
そうそう、つい先日、フジテレビで再放送していただいた「氷の世界」娘が見ていましたよ。まだ作品テーマは理解できないでしょうが、台詞の一言一言にあなたの存在を感じていたのでしょう。言い回しが似ているから・・・。大人になってまた見直したときにあなたをもっと理解すると思います。
すみません。皆さま。個人的なコメントで。
でも、野沢の記事をタイプしていたら答えてあげたくなってしまって・・・。
作品は今も多くの視聴者の心の中に、生きていると思っています。ブログにコメントするのが照れるからと、メールでコメントを寄せてくださる方も多くいらっしゃいます。それらを読んだときに私は本当に嬉しくなります。野沢の書いた台詞が支えになったり、励みになったりしてるとしたら。そこに野沢は生きてるんだって・・・。
 


2007-03-05 00:55  nice!(4)  コメント(12)  トラックバック(0) 
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おやじ、ありがとう [野沢コメント記事]

1997年に週刊誌に書いたものです。

父の膝に乗りこちらを見つめてるのは、当時4歳の野沢尚です。脚本家・作家として紙面に登場した野沢尚から想像できましたでしょうか。

この記事にも書かれてますように、この仕事に進むきっかけを作ったのはお父様だったようです。そして父のためにと「坂の上の雲」という作品を引き受けました。最初、大河ドラマとスペシャル大河(坂の上の雲)のお話があり、どちらをやろうか悩んでいました。私にも意見を求められました。ですが野沢は「坂の上の雲をやろうと思う。おやじに見せたいんだよね」と言いました。最初からこの作品がやりたかったように感じました。

今思うと当時の選択は正しかったのか分からなくなります・・・。でも、幼い日に今の職業を選択したように、あの時も自分の信じる選択をしたのでしょう。


  
’64年に名古屋の自宅で撮影。当時父は37歳(この記事を書いた野沢と同じ)

父に教えられた「物を作る楽しさ」

僕が小学校低学年の頃だったと思う。そろそろ父が外国から帰ってくる頃だと思い、雑木林での蝉とりも早々に切り上げ、家に帰った。
 父は昼間から風呂に入っていた。朗々と響いてくる歌声があった。父は「骨まで愛して」のサビを繰り返し歌っていた。出張先のタイで日本の流行歌が流行っていたのだという。晩酌でご機嫌になるとドイツ語の歌を高らかに歌う父が、「骨まで愛して欲しいのよ~」と口ずさんでいたのが可笑しかった。
 家畜遺伝学者の父は、僕が幼い頃から、世界各国の家畜を追って海外出張ばかりしていた。だから僕は「寂しさ」というものに免疫ができた。家族旅行など一度もしたことがない。だが、どんなに酔っ払って帰ってきても父が将棋を打ってくれるだけで、僕は満足だったような気がする。
 あれが所謂、アカデミックな家庭というやつだったのだろうか。父は外国から帰ってくると、現地で撮影したヤギや羊のスライドを、襖をスクリーンにして解説付きで上映した。家の冷蔵庫には動物の血液が入った試験管が束になって置かれていた。食卓で大きな蛙を解剖してくれたこともある。
 本に囲まれる生活というものを、父の書斎を見て憧れたのは間違いない。
 初めて見た映画は、父と一緒に今池国際劇場で見た『沖縄決戦』だった。
 最初は映画評論家になりたかった。毎日ただで映画を見られるなんて、夢のような仕事に思えたのだ。すると父が言った。「人が作ったものを批判するより、自分で作ったほうが楽しいぞ」
 おかげで僕は、どんなに辛くても「楽しい」と言える仕事をこうして手に入れることができた。 


読み直してみて・・・私は複雑な気持ちになりました。


2007-01-22 09:26  nice!(1)  コメント(2)  トラックバック(0) 
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執筆のとき [野沢コメント記事]

1998年2月4日 ある新聞に寄せた野沢のコメント記事です。


読む人うならせたくて 勇気出し自作読み返す

今、机に積んだ原稿を前に僕は途方に暮れている。
 400字詰め原稿用紙に換算して720枚。正月を挟んで40日で書き上げた次回作の小説だ。
 情けないことに、読み返すのがこわいのだ。
 40日の短距離走だった。720枚といえば、連続ドラマ・ワンクール分の原稿量に等しい。ドラマの仕事ではこの量を4ヶ月ほどかけて、1回ごと、プロデューサーやディレクターのチェックを受けながら書き上げていく。まさに1人駅伝競走だ。先ごろ終わった「青い鳥」では1年以上を走り続けた。
 もちろん、出版社には有能な担当編集者もいるし、執筆に詰まったときは酒場に誘って相談を持ちかけてもよかった。だが、小説を書く魅力とは徹底した個人作業にある。仕事場に朝入り、夕方までこつこつノルマをこなし、机に原稿を積んでいく日々を、書き終わるまで続けてみようと思った。
 3分の2を書いたところだった。「この小説は本当に面白いんだろうか」という根源的な疑問が突き上げてきた。こうなるとパソコンを起動させて白紙の画面を前にしても、なかなか文字が埋まらない。1日7時間労働のうち、最初の2時間は、自分を覚醒させ、調子に乗せるための戦いに費やすことになる。今書いている物語と共通する映画のサウンド・トラックCDを流し、我が子を誘拐された婦人警官になりきり、犯人に怒りの銃弾を放つ。そして犯人側に立って、前代未聞の身代金奪取計画に知恵を絞る。
 とにかく文章を組み立てて描写を重ね、「この犯罪計画は穴だらけじゃないか?」とか「人間がストーリーに埋もれてしまっていないか?」とかいう自分の内なる声をひき殺していく。
 だが、それでも執筆に詰まってしまい、頭をかきむしる。自分の才能のなさに嫌気が差す、というよりも、なまじ書く才能があったがためにこんなふうに苦しまなきゃならない身の上を呪う、という心理だ。
 「どうしてこんな仕事をお前は選んだのだ?」と、「だって、ほかに何の取りえもないだろう?」と一方が言い返す。大学4年の時に人並みに就職活動をしていたら、自分にはどんな人生があっただろうか、などと考えているうちに、昼になり、腹が減り、自宅から持ってきた弁当を食べ始める。
 午後の部だ。もう内なる邪念には耳を傾けない。とにかく文章を紡ぐことに集中し、登場人物と肩を組んで虚構世界を突っ走る。
 午後5時、何とか1日分を書き終え、疲れ果ててソファにぐったり横たわる。小説であれ、脚本であれ、自分は一生、現実にいもしない人間たちを相手に苦しまなくてはならないのだ、と改めて思い知る黄昏時だ。
 が、この原稿が製本され、書店に並び、読み終えた人が「ほうっ」と満足の溜め息を漏らしてくれる時を、どうしても夢見てしまう。
 勇気を振り絞って、今からこの小説の読者になるべく、1ページ目をめくってみることにする。


2007-01-18 02:51  nice!(0)  コメント(6)  トラックバック(0) 
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野沢と深作監督の到達点 [野沢コメント記事]

今日は1月6日小学館より発売の烈火の月について書きたいと思います。


野沢尚と深作欣二監督との出会いがこの作品の出発点。
この烈火の月は「その男、凶暴につき」のノベライゼーションではなく、一編の新作としてこの世に送り出したかった。新キャラクター「マトリの女」をはじめ主人公や敵役、脇役に至るまで相当の取材を重ね書き込みをおこなった。

シネスコの手持ち画面が激しく揺れる深作・現代アクションを夢見て、何本ものプロットを書き上げた。
そして、何本目かのプロットが監督の琴線に引っかかった。
タイトルは『灼熱』(「その男、凶暴につき」の原型)
しかし、その後多忙を極める監督も野沢も別の映画作品スケジュールへと向かうことになった。

1年後の再会。
その頃、作品タイトルは『その男、凶暴につき』に落ち着いた。
そして、ビートたけしさんが初主演に決まった。
同時期、結局スケジュールの合わない深作監督は作品を離れ、ビートたけしさんが監督を兼ねることになった。
ある程度の改定後、「あとは現場にまかせてほしい」とプロデューサーの一言で脚本を手放すことになった。
自分の作品をわが子のように思っていた野沢にとって、とても辛いことだったと思います。

北野たけし監督作品を観て帰ってきた日。
「自分の脚本をズタズタにされたことはやっぱり耐えられないけど、北野たけしは天才だよ。悔しいけど傑作だったよ」と言った。
野沢の表情を見たら、何も声をかけることが出来ませんでした。

結局、お互いのスケジュールや諸条件が合わず、深作監督との仕事は実現しませんでしたが、この出来事は、後に野沢を作家へと動かすきっかけの1つになりました。

2003年1月12日、深作監督は永眠されました。
空は悲しげに灰色の雲が立ち込め、時折かすかに小雪が舞う寒い日でした。
すすり泣きが響く築地本願寺の境内で、野沢と2人で合掌し、消えていく霊柩車を見送りました。
私の頭上から野沢の声を殺して泣く音が聞こえました。私は顔を上げて野沢の表情を見てはいけないと思いしばらくの間、じっと涙でゆがんだ足元を見つめていました。(深作監督は私たちの結婚式でもスピーチをしてくださいました)

烈火の月単行本の奥付を監督の一周忌命日の2004年1月12日にすることにこだわったのは、深作映画の脚本家は、監督に殺意さえ覚える・・・そんな濃密な仕事をご一緒したかったからでしょう。

単行本出版から5ヵ月後、私は同じ築地本願寺で、あまりに短い人生を生きた野沢を見送りました。
天国で深作監督に逢えたのでしょうか・・・


2007-01-04 11:50  nice!(0)  コメント(2)  トラックバック(0) 
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